◆◆◆敬覚寺沿革◆◆◆ 本文へジャンプ

 築地本願寺門前の58ヶ寺


昭和25年
 石神井から敬覚寺までの道。


昭和34年
 三軒寺交差点、


昭和3年
 敬覚寺旧本堂


昭和43年
 敬覚寺本堂
 多くのご門徒さまに支えられて建立
寺院建立の契機
敬覚寺は寛永十八年七月(西暦1641年)、徳川家光の時代、江戸青山に建立された。初めは専照寺と号し、開基の了玄上人は俗称を吉川監物広喜の孫、内蔵之助元玄と称する武士で浄土真宗に帰依厚く、当時の西本願寺門主第十三代良如上人を師と仰ぎ教化伝道に専念していたということである。良如上人は江戸幕府と交際を専らにし、たびたび江戸に赴かれていたがたまたま寛永十七年、七十五歳で往生された家康公の二十五回忌に出席のため上京されたことも一つの縁となり翌十八年建立の運びとなったという。
築地移転
その後約十六年、明暦三年正月十八日、江戸の約三分の一を焼失するといういわゆる振袖火事(明暦の大火)によって類焼し、万治二年当山住職誓玄の時、現在の築地御坊の寺中(武蔵国豊島郡築地三丁目百十五番地)に移転し宝華山敬覚寺と改称した。ちなみに現在の築地御坊も以前は浅草横山町にあり浅草御堂と呼ばれていたが、〔浜町御坊とも矢の倉御坊とも呼ばれていた〕やはり振袖火事で焼失、その寺中十八ヵ寺とともに、四代将軍家綱によって寄進された現築地に移る。(当時本願寺門主は十三代良如上人)そして八丁堀築地寺中では他からの移転寺院を含め真宗寺院五十八ヵ寺を数え、教法弘通の実りとともに、寺門愈愈繁盛したのである。しかし、以来明治に至るまでいわゆる江戸大火と称する度重なる火災により増上寺、浅草寺、寛永寺、伝通院等の寺院がしかも二、三度ずつ交互に焼失する中、わが築地御坊も天明四年十二月築地御坊始め寺内五十八ヵ寺もろとも全焼、文政十二年にも別院焼失、安政三年には大風により本堂倒壊。明治五年二月二十六日築地寺中ことごとく類焼などを経て大正十二年九月一日、関東大震災により未曾有の被害を蒙り御坊を始め当山も本堂庫裏一切が烏有に帰したのであった。これら度重なる災害の中、敬覚寺においてはご本尊阿弥陀如来像、ご開山ご絵像他上宮太子略縁起等は歴代の住職、坊守、寺族の命をかけての護持にて事なきを得たことは不幸中の幸いであった。(本願寺年表.築地別院三百年史他より)
石神井谷原への寺基移転
関東大震災の後直ちに築地同跡地に小規模ながらも本堂、庫裡を建造したが僅か四年にして東京市復興局の方針により、区画整理の都合上、移転のやむなきに至り昭和三年十二月東京府北豊島郡石神井村谷原字北原と呼ばれた現在地へ移転した。そして今日、同じく築地より移った宝林寺、真龍寺とともに谷原の三軒寺として広く親しまれている。移転は建物だけでなく墓石ともどもということで難事業であったことは推察されるが、目白の椿山荘前の坂を大八車に墓石を積んで石神井の寺を往復した話など改めて諸先達のご苦労が偲ばれることである。
第十五代住職以降
当山十五代住職超賢は石神井移転後も築地本願寺に通い副輪番をつとめつつ、声明の指導にあたり、ご門徒中にも温厚篤実の人として特に信頼は大であった。十六代賢昇は東大印度哲学科を卒業後、法務の傍ら今の東京理科大、武蔵野女子大の英語の教師を勤め、またサンスクリットの研究のため奈良県ひばり山青蓮寺にこもり、浄土教の経典の一つである『称讃浄土教』、『大麻曼茶羅』など翻訳出版し学級肌の住職として名が知られていたが、戦後の苦労が重なり五十五歳で往生した。妻であり坊守であった安子は、一念発起し東京仏教学院、京都本山、布教研究所などに通い十七代住職として教化、寺門運営につとめ、昭和四十三年にはご門徒中の支援を受けて鉄筋コンクリート造り本堂並びに客殿(木造)を落成した。同時に十八代住職(現住)を迎え昭和四十九年浄苑(屋内墓地)を完成。平成元年には当山開創三百五十年、石神井遷座六十年の記念法要。平成四年三門落成。平成十一年無量寿塔建立。平成十六年には老朽化のため表客殿新築、本堂内外陣修復が完成し、なお親鸞聖人銅像を境内にお迎えし今日に至っている。長い歴史の中で、歴代の住職寺族関係者、代々にわたるご門徒方ほか無数の方々の尊いお蔭さまを痛感せざるを得ない。